浜田光夫 研究室

浜田光夫さんファンによる

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管理人
岡 ななみ
   

 浜田光夫さん とは・・・

    日活黄金期と呼ばれる1960年代。
    石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治からなるダイヤモンドラインによるアクション路線。
    そして、浜田光夫、吉永小百合の純愛コンビが人気を博した青春路線。
    日活が、映画が、1番輝いていた時代。そんな時代を代表する、永遠の青春スター、それが浜田光夫さんです。
    日本の映画の歴史においても重要な功労者でありながら、その後もテレビ、舞台と活躍の場を広げ、今もなお常に現役で輝き続ける浜田光夫さんの魅力に迫りたいと思います。

  •  プロフィール

  •  生年月日  1943年(昭和18年)10月1日
     出身地   東京都
     身長    168cm
     血液型   A型
     趣味    ゴルフ
     座右の銘  一生青春一生勉強
     所属事務所 株式会社アートプロモーション

       
  •  略年表

  • 1943年10月1日 東京都神楽坂にて誕生
    斌と名付けられる。(のちに光曠と改名)
    1949年代々木上原小学校 入学。母の勧めでバイオリンを習い始める。(5年間)
    映画「ここに泉あり」バイオリン教室の生徒の1人として出演
    1953年5年生で玉川学園へ転入
    1954年6年生の夏休み母に連れられ児童劇、
    劇団東童「ピーターパン」を観て芝居に興味を持ち、翌週には劇団東童入団。
    1955年~入団まもなく映画「石合戦」主役に抜擢される。
    次の作品も決まっていたが玉川学園・岡田陽氏、若杉光夫監督の
    大切に育てたいという意向から出演は見送られる。
    TV「メリイ・クリスマス」出演。
    演劇部に所属しいずれも主役、準主役級で複数の舞台に出演。
    「王様と乞食」乞食役、「ピノキオ」ピノキオ役等
    1958年劇団四季「永遠の処女」セバスチャン役で出演。
    1960年明大中野高校へ転入。「ガラスの中の少女」オーディションを受け見事合格
    11月 映画「ガラスの中の少女」公開(浜田光曠名義)
    「他社に出さぬようにしてほしい。日活と契約せぬか」と日活・江守常務に声をかけられ、
    若杉光夫監督と相談の上、本人の意思で 日活 入社
    1961年芸名を浜田光夫に改名
    1962年映画「キューポラのある街」公開(第13回ブルーリボン作品賞)
    日本映画テレビプロデューサー協会
    エランドール賞 新人賞 受賞
    テイチクと契約。歌手としても活動開始。
    1963年映画「非行少女」公開(第3回モスクワ国際映画祭銀賞受賞)
    1964年 サンケイ新聞シルバースター男優新人賞 受賞
    1966年7月25日未明 右目に失明寸前の大怪我を負い、休養
    1967年6月公開「君が青春のとき」で復帰という話が出るも、実現せず。
    8月18日 一時は失明の噂も流れたが、記者会見にて完治したと発表される。
    10月 映画「君は恋人」で復帰
    レコード会社をテイチクから東芝へ移籍
    1970年日活の路線変更に伴い、石原プロへ移籍
    テレビドラマ「お荷物小荷物」出演
    1971年1月 元・宝塚の青園宴さんと結婚。ハワイにて挙式
    1972年特撮ヒーロー番組「アイアンキング」出演
    1980年映画「天平の甍」公開(日本アカデミー賞ノミネート作品)
    1990年芸能生活30周年記念盤 CD「帰って来たんだね」発売
    2012年日活100周年
    本「青春 浜田光夫」出版
    2016年第25回 日本映画批評家大賞
    ゴールデングローリー賞 水野晴郎賞 受賞

    ・玉川学園時代、同じ演劇部の森くんが少年野球チーム・ジャニーズに所属していた縁で浜田光夫さんも時々野球の練習等に参加。その後もジャニー喜多川氏とは交流があるそうです。


  •  テイチク資料 浜田光夫略歴(1963~66年頃掲載)

  • アクション王国の日活の中で地味だけれどすぐれた思春期ものをやる異色スター。昭和30年民藝作品日活封切「石合戦」に主演。最近作として「ガラスの中の少女」に主演。若杉監督に指導を受け現在に至る。趣味はスポーツ、音楽。

  •  日活映画1963年4月号より『フレッシュガイ浜田君の7つの魅力』


  •  ニックネーム:フレッシュガイ 浜田君

     ☆ 卓越した≪演技力≫
     ☆ もぎたての果実のような≪フレッシュ≫な感覚
     ☆ だれにでも親しまれる≪庶民性≫
     ☆ 底抜けの≪明るさ≫
     ☆ 未来にむかって≪輝く瞳≫
     ☆ ラフのスタイルの中に溢れる≪都会的センス≫
     ☆ しびれる≪低音≫の魅力



    日活映画の誌上でニックネームと七つの魅力を一般公募したようです。
    浜田光夫さんにも“○○ガイ”というニックネームが存在していたとは…!(定着しなかったようですね。)
    七つの魅力はどれも納得!♡


  •  『浜田光夫*歌と映画のあゆみ』
        (1967年 LP「青春の歌声」より 木本裕 氏による解説)
  • * 雑草のたくましさと やさしさのハーモニー *
    ニキビ少年―浜田光夫のデビューは、昭和30年。「石合戦」という文芸大作の子役だった。この少年がニキビの減ってゆくのと平行して演技派青年として脚光をあびたのは、純愛コンビ吉永小百合との第一回作品「ガラスの中の少女」である。当時、日活では石原裕次郎・小林旭・宍戸錠といったタフガイ、マイトガイのアクション映画全盛時代。そんな中で庶民の感情と生命力を見事に表現した新スターは、アクションにはないどこにもいる青年像の真実の姿として、さわやかな印象で迎えられた。
    蛇足になるが、浜田16才、吉永14才のときの作品である。さて、彼の最初のカラー作品であり、本格的な主役映画は、「太陽は狂ってる」である。少年から青年への過渡期、誰もが一度は体験する不良性。表面は悪がむしばんでいても、心は澄んでいるという心の描写の難しい役であった。
    彼―浜田光夫の恩師でもあり、「ガラスの中の少女」の監督でもある若杉光夫が、『浜田は日本映画界にはめずらしい、芝居けじゃない芝居ができる俳優。きっと呼吸の長い将来のスターになるだろう』と云った言葉を完全に裏書し、世に浜田光夫ありを決定的にしたのは、これまた吉永小百合とのコンビによる、「草を刈る娘」である。津軽平野に仮小屋をつくって、一年分の馬草を刈る集団草刈隊の姿を石坂(洋次郎)作品らしく明るく取り上げたこの作品は、草匂のあのバイタリティと生命力が、スクリーンを通じて高校生や若い層の胸を打った。続いて37年度の映画界の話題を独占した「キューポラのある街」がある。
    この作品で、浜田・吉永は、日本の新しい純愛コンビとしての完成をみた。いわば、第一回のコンビ作品「ガラスの中の少女」が青い芽ならば、「キューポラのある街」ではたくましい太い樹として我々にその姿を見せてくれた。
    「キューポラのある街」は、うすよごれた熔解と汗そして貧困といった地味なシチュエイションが織りなす社会派ドラマであったが、その中にくじけないひたむきな精神力が、見る人々に深い感銘を与えた。そしてゆたかな演技力を見せる作品は、テーマが暗くてもお客様を引きつけるという、映画界に新しい実績を残した。
    これより先、彼の所属する日活では、ギター・セクションを中心にしたアマチュアバンドが結成されていた。メンバーは、高橋英樹・和田浩治・山内賢・杉山俊夫・田代みどりといった若手中心で・・・。もちろんヴァイオリンを小さな頃からやり、根っからの音楽好きだった彼も喜んで参加した。この頃は、主にリズム・アンド・ブルースや最近流行しているフォーク・ソングのヴォーカルを、彼が受け持っていた。『浜田君はバラードを歌うとうまいし、音程がしっかりしているよ』―石原裕次郎がテイチク堀の内吹込所で、中島ディレクターになにげなく語った言葉がきっかけとなって、昭和37年3月、歌う青春歌手浜田光夫が誕生したのである。
    裕ちゃんが云ってくれたように浜田君は、ソフトでしっとりとした声量の中に、ちょっぴりハスキーな甘さが感じられた。彼のデビュー曲は、リズミックな「憧れの東京」とシャンソン風なバラード「夜」である。その後「涙の中の青春」「青い流れ星」とヒットを飛ばしてきたが、歌手―浜田光夫を決定的にしたのは、38年三条江梨子とデュエットした「草笛を吹こうよ」があげられる。“涙がこぼれてとまらない時は、丘へのぼって空を見て、草笛を吹こうよ”・・・この詩情ゆたかな作詩とメロディックなテンポは、ハイキングや職場のコーラスで若い人々が必ず歌った想い出多いヒット曲である。この後、高校生の清らかな愛を歌った「交換日記」も忘れることが出来ないヒット曲である。
    さて、キューポラに続く映画の歩みに戻ろう。大学入試前の男女の姿と、その家庭をコミックに画いた石坂作品「赤い蕾と白い花」も、さらりとした楽しさをわたくし達に与えてくれた。38年に入っての第一作は「青い山脈」があげられる。浜田光夫にはバンビのニックネームがあるが、この作品は浜田がもっともバンビらしい快活な高校生として、スクリーンを笑いでうずめつくしてくれた。そして外交官令嬢とヤクザの実らぬ恋を画いた「泥だらけの純情」、異色作「サムライの子」「非行少女」と続き、彼は青年の喜怒哀楽をスクリーンを通じて間近に見せてくれたのである。さも観客席の自分が主役であるかのように・・・。
    さて実生活における浜田光夫は、母一人子一人であり、母を大切にすることとその親孝行ぶりは映画界のホット・エピソードとして、知れわたっている。こうした母の愛情を一番よく知っている彼が歌った「おふくろ」と、もし山で遭難したら・・・というシリアスなレコード「お母さん、ごめんなさい」は、発売と同時に一大反響を呼んだ。その後山での遭難が、社会的なキャンペーンになった要因を、このレコードは果たしたわけである。
    39年に入ってからは、三島由紀夫の代表作「潮騒」の映画化。そして日本中を感動と涙でうずめつくした大島みち子・河野実の往復書簡集―「愛と死をみつめて」など力作があいついでスクリーンを賑わした。
    軟骨肉腫という不治の病に侵された少女と、恋人の愛に満ちた激励が、≪生命≫を超越した愛のきずなを結んだこの作品は、浜田にとって新しい演技開眼の糸口となった。
    浜田光夫が吉永小百合と組んだ30本目の記念すべき映画、それは「キューポラのある街」の続編「未成年」である。息の長い、それでいていつもフレッシュなコンビはこうして映画界の貴重な存在としてゆるぎない位置を築いた。
    その後、「青春のお通り」「大空に乾杯」「青春ア・ゴーゴー」「風車のある街」「私違っているかしら」とスター街道を驀進していた彼は、昭和40年7月25日未明、名古屋で酔漢におそわれ右眼に重傷を負った。一時は失明説も飛び出すほどだったが、8月18日の記者会見で完全に治ることが判明した。本当によかった。本当に無事で何よりだった。
    浜田光夫君は、スクリーンで見せたあの闘魂をやはり持っていた。
    若人のにない手、映画界のエース――
    浜田光夫君に栄光あれ!


    ※ ニキビ少年……「石合戦」の頃というより、1963年頃まで若さのシンボル・ニキビをいじられる記載あり。(1963年近代映画にて確認)

    ※ ギター・セクションを中心にしたアマチュアバンド……日活の俳優さんで結成されたバンド≪日活ヤング・アンド・フレッシュ≫。レコードを出したり映画に登場する頃は、山内賢さん、和田浩治さん、杉山元さん、木下雅弘さんの4名でしたが当初は杉山俊夫さんもバンドメンバーで、ボーカルとして浜田光夫さん、高橋英樹さん、田代みどりさん、吉永小百合さんらが参加することもあったそうです。(1963年「日活映画」杉山俊夫さんインタビューより)
    LP「歌う日活スター・クリスマス・パーティー」(1962年)では、石原裕次郎さん、浜田光夫さん、高橋英樹さん、杉山俊夫さん、田代みどりさん歌唱、バックバンドが日活ヤング・アンド・フレッシュでした。

    ※ 「お母さん、ごめんなさい」……もし山で遭難したら、というより、実際に当時北海道の雪山で起きた遭難事故がモチーフと言われております。


  •  監督、仲間からの評価

  • ◇ 若杉光夫 監督 ◇
    いま、民藝では『初恋』と『台風』の交互公演をやっている。この芝居を 浜田君に見せてやりたいのだが忙しくてなかなか見に行く暇がないらしい。
    ところで、浜田君といえば、非常にカンのいい青年である。これは、大切な要素である。やる気があっても、出来ない人がたくさんいるのであって、浜田君の場合は、一つの才能だと言えよう。
    いまのままいけば、その将来に大きな期待が持てる。だが、いまの映画界の実情としては、大切な才能を乗りつぶしてしまう危険が多い。
    私は『石合戦』『ガラスの中の少女』『大人と子供のあいの子だい』『サムライの子』の四本を手掛けている。
    最初の『石合戦』のとき、子役を使うので東童に行き、そして浜田君を発見した。浜田君には“陰”があった。“哀愁”といおうか。それが気に入った。あとで知ったのだが、彼は父に早くに死に別れ、母の手ひとつで育ったという。映画の主人公にピッタリのイメージだった。
    浜田君の、玉川学園に於ける劇も観た。玉川学園の岡田陽氏は私もよく知っている。岡田氏も浜田君に注目していた。そして二人で「浜田君をどう育てるか」について話し合ったものだ。
    「しばらくは映画、テレビに出さぬようにしよう。そして充分、勉強させよう。」
    と言っていたのだが、テレビの『メリイ・クリスマス』に使いたくなって、浜田君をテレビに出した。同じくテレビの『怪人二十面相』で、明智探偵について歩く小林少年の役も考えたが、これもおさえた。余りちょいちょい使わぬ方が本人のためと考えたからである。それにしても浜田君のお母さんもよくおさえてくれた。
    浜田君のことはいつも頭にあった。それで民藝のユニット作品『ガラスの中の少女』の時、吉永小百合君の相手に彼を起用したわけである。そして、試写を見た江守常務が、「他社に出さぬようにして欲しい。日活と契約せぬか」と言った。映画はむずかしい。私は浜田君を自分の劇団で教育したいと思った。その方が、本人の将来の為によいと思った。
    だが――と考えた。日活を断って、十年後にはたして浜田君によきチャンスが訪れるかどうか?私は迷った。
    「やるかい。日活へ入ってやってみるか?失敗するかもわからんよ」
    私の言葉に、浜田君は「やらせてほしい」といったので、入社したのである。
    江守常務の目は高かったわけである。
    彼に対する今後の希望としては――彼は商業映画に出ているが、時には、私たちの手で映画を作ってみたい。そして、本当の芝居を身につけさせてやりたい。
    よき企画を立て、台本をじっくり書き、演出家、俳優・・・・それぞれ一流スタッフをそろえて良い写真を作りたい、とねがっている。
    俳優というものは、使ってばかりいてはダメなのである。発散するだけではいけない。吸収する時間を与えねばならぬ。そして、自分のものを、ふくらませてゆかねばならない。
    そのためには良い芝居を観ることが必要である。勉強する時間を与えねばならない。
    50歳の俳優が18歳の役をする。それで18歳の俳優より青年らしかったら、それは、表現の適確さということの勝利である。自分の持味だけで芝居していてはいけないということになる。
    自分の持味だけに頼ると、いつも同じ芝居になってしまう。
    浜田君は『非行少女』の役がむずかしいと言っていたが、そういうむずかしい役にこそぶつかってゆく必要がある。
    私も彼のためには、出来るだけのことをしてやりたいと思っている。
    彼の映画を観ていると、気になったり、心配になることもある。浜田君自身で、今後の方針を考えることはなかなかむずかしい。それには、周囲の人々が、気をつけてあげねばならない。
    今の彼は、企画に恵まれている。骨のある作品が多いので、倖せだといえよう。しかし、多忙すぎて、次々と作品に出ることは危険である。さっきも言ったが、発散させるばかりではいけない。人気だけに頼る芝居をするようになるのがこわい。それを、自重してほしい。
    彼が今日あるのも、東童で勉強したこと。そしてまた、玉川学園で、教育の一環として演劇を勉強したことが、たいへんに、彼のためになった。
    とかく子役からきた俳優は“くせ”のある芝居をする人が多い。幸い、彼にはそのくせがない。“くせ”のない芝居を身につけたのが、彼にとって幸いであった。役者くさくない役者。それが彼の魅力であり、これからも、彼のために出来る限りのことをしてあげたいと思う。
    ――1963年 近代映画 特集号より

    浜田クンを初めて手がけたときから、これはイケルと思ったが、その予想はみごとに当った。持って生れた天与の才能も光っていたが、それを活かすために頑張った浜田クンの努力と忍耐は絶賛に値するものである。
    「ガラスの中の少女」から「サムライの子」への目ざましい成長ぶりもさることながら、とにかくまだ若いし、これから先、最も期待が寄せられる演技者である。素敵な素質で無限に伸びていくことを願ってやまない。
    ――1963年ソノシート「青春の歌声1」より

    ◇ 浦山桐郎 監督 ◇
    とにかく日活には、見たとたんウーンといいたくなる、もぎたてのリンゴのようなフレッシュな魅力の旺溢した若ものたちがワンワン群っています。
    そのうえ、一人一人がみなちがった個性と雰囲気を持っており、例えば浜田くんなど、すべてがみずみずしく明確で若いのに筋金がガンと入っていて、まったくカッコいいへんな奴だと思う。
    こうした多彩な可能性を持つ演技者が多いことも演出家として楽しいことです。
    ――1963年ソノシート「あなたとスターと音楽と」より

    ◇ 中平康 監督 ◇
    生まれながらの俳優としかいいようがない。十年に一度の俳優といっていいだろう。裕ちゃんより上ですよ。
    監督にとっては、一本の映画の中で、これが肝心のシーンだと、俳優の演技に祈りをこめたい時が必ずある。その時に、その気持ちをパッと受け止めて、こちらの期待以上のことをちゃんとしてくれる。すばらしい役者です。とくに目の芝居のうまさときたら天下一品。
    ――1963年

    ◇ 日活 石神清 宣伝部長 ◇
    調和なき魅力……それが、浜田君の魅力ではなかろうか。そこいらに、いくらでもいる平凡な人間。だが、その中に、思いがけない美しさがきらめいている……というのが不調和の美である。
    そういう美を、浜田君が代表していると思う。
    日活では、美人スタアは欲しくない。どんな女性でも、それぞれの魅力があるものだ。そういうものが、スタアとして花ひらけばそれで充分なのである。
    浜田君の場合にしても――。
    彼には、作為といったものが、ぜんぜん感じられない。二枚目を超えたところが彼の魅力だといえよう。そこが、キイ・ポイントだと思う。
    不完全な美――。もちろん、中身はからっぽでは困る。内面の美を、その努力、根性、天性といったものが支えている。その魅力を浜田君が新しい代表として登場し、発散しているのである。
    宇野重吉が若かったら、浜田光夫のような魅力を発散させるのではなかろうか。
    彼の主演で、庶民に愛される作品をどんどん作りたい。『非行少女』は注目すべき作品になると思う。
    テレビで人気のあった『煙の王様』なども今後の企画として考えている。
    ――1963年 近代映画 特集号より

    ◇ 日活 江守清樹郎 常務 ◇
    若杉光夫監督の『ガラスの中の少女』をみたとき、浜田君の演技は目立っていた。
    小柄な身体なのに、光るところがある。この子は、見どころがある。もし、真面目に、一生懸命やるなら、伸びてゆくであろうと思った。
    よき企画にめぐり合い、条件がそろえば、もたもたしないで急速に伸びる、という予感はあった。そして、その予感通りになったと思う。
    浜田君の魅力は――。
    『泥だらけの純情』をみてもらえればよくわかるのではなかろうか。観客は、今まで、彼をバイプレイヤーとしかみていなかった。それが、今度、堂々と主演をやってのけた。そして、立派な成績をあげている。
    やくざを見事にこなした。外側からみれば天才的なひらめきが見えるが、内側からみれば、根性と、芝居好きが見えるだろう。
    好きこそものの上手なれ、である。いくら好きでもどうしようもない人もある。しかし彼の場合は、この言葉通りだ。
    大体、彼は二枚目ではない。しかし、今や二枚目の時代は過ぎた。石原君のデビューから、スタアに二枚目はいらぬ、という哲学が生まれたが、いまもその通りである。
    女優の場合でもそうである。山本富士子の美しさと吉永小百合の美しさはちがう。それと同様、浜田君の場合は、現代ボーイそのものなのである。
    従来のギャング映画やチンピラ映画の時代は過ぎた。浜田君の役のように、悲しさや、弱さを描いたのが成功したのである。純情なギャングやチンピラの悲しさ、弱さにふれると、見ている方も泣けてくる…のだ。 そこで、これからも彼にこのような役をやってもらうつもりだ。
    歌も歌わせたい。村田英雄の歌った『王将』を浜田君も歌ったが、なかなかうまいではないか。
    日活という会社は、コンビだけの魅力で売るのではない。会社全体のスタッフで売っている。その中で、強烈な、個性あるスタアを育てたい。
    小つぶで、平凡な人間……その内面の美しさをこれからも強調して“青春路線”を続けて行きたい。
    ――1963年 近代映画 特集号より

    ◇ 俳優 高橋英樹さん ◇
    「貴重なオトコ」
    ぼくの無二の親友であり、よきライバルでもある浜田光夫クン。
    かれは誰にでも好かれるゴキゲンなやつだ。ドングリ眼をクリクリさせて”オッス”なんて挨拶するときなど、ほんとうに爽快で、誰でも、逢ってよかったと思うだろう。とりわけ身についたとでも言うのか、自然の行動がどこか茶目っ気をかもし出して、これもたまらない魅力の一つだ。
    とにかく貴重な雰囲気を持ってるオトコだ。
    ――1963年

    ◇ 女優 和泉雅子さん ◇
    「若さがいっぱい」
    いつでも元気いっぱいの浜田さん。日に焼けた真っ黒い顔に大きな瞳、それにキラキラ光る歯がとっても印象的。なにもかも楽しくって仕方がないとでもいいたそうな明るい若さが全身に溢れているようです。
    そうして、そんななかにも演技者として激しい試練に、いつも前向きの姿勢で突き進んでいく浜田さんのきびしい努力は本当に逞しいものです。
    浜田さん、今后も私たちのよきお手本として大いに頑張って下さい。
    ――1963年

    ◇ 女優 芦川いづみさん ◇
    「惜しみない情熱!」
    生まれついた才能を、より豊かに伸ばすこと、それには努力以外の何ものもありません。
    浜田さんはたいへんな努力家だと思います。もともと恵まれた才能を浜田さんは更に、泥だらけになって磨きます。それへかける若さが情熱を燃やし、常に明日へと飛躍するエネルギーの泉になっているのでしょう。
    浜田さん。ファンの方々の期待に応え、若い世代のチャンピオンとして、これからも惜しみない情熱で頑張って下さい。
    ――1963年




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